Re:fuseの評論ロック

文学的センスの欠如。

消極的ノスタルジア

 人は大抵自分の生まれ故郷が好きだし、自分の母校が好きだ。そして同級生も好きだろう。それは自らの社会的アイデンティティーの肯定が自己肯定感に繋がるからからもしれない。とにかく、人は自らの出処を良いと思っていることは確かである。しかし、それ主観的な良さであり、客観的な良さではない。単に東京都に生まれたから、東京都が好き、日本に生まれたから、日本が好き。

変数をXとして

「xに生まれたから、xが好き」という式を作ってしまえば、後はxに出身を代入するだけだ。故郷を愛することと、その故郷が良いところであることは何ら関係はない。もちろん、都道府県によって満足度に差は出るかもしれない。「おらこんな村やだ〜」と言われることの方が多いような場所もあるだろう。

しかし、こんな村でも、故郷なのである。

 

 私は、自分の地元も母校も、好きでもないし、嫌いでもない。それなりに楽しかった思い出もあるし、それなりに辛かった思い出もある。ただ1つ言えることがあるとすれば、私の同級生は私より遥かに母校を愛し故郷を愛しているということだ。頻繁に「地元に帰りたい、高校の頃に戻りたい」などと言っている。それは、彼らの現在が充実していないことの裏返しかもしれないが、少なくとも彼らの過去が美しいものであったことは真理だ。ノスタルジアは、一度栄光を掴んだ者にのみ与えられる。私の高校時代は不完全燃焼だった。瞬間最大風速こそ悪くはなかったが、それは一瞬で、儚くて。それより長い低迷の方が何杯も重くのしかかる。それなりに楽しめた一方で、他の高校に行っていれば、もっと楽しめたのではないか?という疑問は残ってしまう。盲目的に、自分の母校だから最高だ!ということは簡単だ。しかし、また違う人生のルートがあったとすれば…。そう考えてしまっている時点で、過去は情緒的ではなく、理性的に存在している。もちろん、今が充実しているのなら、過去は過去として割り切れるだろう。しかし、そうもできない。過去は現在に繋がっていて、今の自分を形作っている。今の自分の性格も、考え方も、全て、あの時生まれた。そうである以上、過去を否定することはできない。だから、私はベストではなかった過去を、今日も消極的にノスタルジアする。積極的ノスタルジアをする旧友を横目に見ながら。